vol.1 インディアンの時代
vol.2 植民地時代
vol.3 イギリスからの独立
vol.4 アメリカ合衆国のはじまり
vol.5 西部開拓の時代
vol.6 北部と南部
vol.7 南北戦争
vol.8 合衆国再統一
vol.9 産業革命
vol.10 新移民たち
vol.11 第一次世界大戦
vol.12 繁栄と不況の時代
vol.13 ニューディール政策

 

vol.3 イギリスからの独立


1700年代になるとイギリス人が次々に北アメリカに移住し、東海岸一帯に定着して13の植民地を建設しました。これらの植民地はそれぞれ独自の発展をとげ、北部(ニューイングランド植民地)では多くのピューリタンが定住し、自営農業と商工業を発展させました。一方、南部植民地では宗派も様々で、黒人奴隷を労働の糧として綿花・たばこなどのプランテーション(大農場経営)を発展させました。

フランスは西部に領土を広げ、多くの開拓者たちが西へ移動していきました。当時フランスとイギリスは折り合いが悪く、植民地をめぐってついに戦争が勃発しました。イギリスはフランスとアメリカ大陸の先住民族(インディアン)の両方と戦わなければならなかったことから、この戦争はフレンチ=インディアン戦争(1755-63)と呼ばれました。数年間に及ぶ戦争の結果ついにフランスが破れ、イギリスはMississippi川東側のフランス領土を全て獲得しました。脚注*1

ところがこの戦争でイギリスは多くの負債を抱える結果となり、これらの負債にあてる資金調達のため1764年に砂糖法(Sugar Act)を定めて砂糖に対して課税を行い、植民地住民の反感をかいました。また、貨幣法(Currency Act)を定め、植民地の住民達が勝手に紙幣を印刷することを禁じ、本国の紙幣を使用することを強要しました。更に、1765年には印紙法(Stamp Act)を制定し、植民地で出される全ての証書・出版物などに対しての課税を行いました。この他にも、イギリス軍に対して馬や食糧を差し出さなければならないという条例(Quartering Act)もありました。

植民地の住民達はこれらの条例に強く反発し、脚注*2 この結果「代表なくして課税なし」"No taxation without representation"という主張やイギリス製品のボイコット運動が広がり、印紙法はついに廃止されましたが、1773年には新しく茶法(Tea Act)が制定され、植民地に対する茶の独占販売権が東インド会社に与えられました。これに反対する植民地住民がボストンに入港してきた東インド会社の船を襲撃し、茶を海中に投じました。これがボストン茶会事件(Boston Tea Party)です。脚注*3 この報復手段として本国はボストン港を一時封鎖し、これによって植民地と本国との対立が一層激化したのです。

1774年には13植民地の代表がPhiladelphiaに集まり、第1回大陸会議(The First Continental Congress)を開催しました。彼らは課税や他の本国からの弾圧について話し合い、植民地住民の基本権利を確認、本国に対してこれを主張しました。しかし本国政府はこれを無視したため両者の対立は更に激化し、1775年にMassachusettsのConcordで武力衝突が起こりました。この武力衝突を抑えるために本国からもイギリス軍がやってきました。植民地軍の小さな部隊がLexingtonでイギリス軍と衝突し、ついに独立戦争(1775-1783)が勃発しました。
The First Continental Congress

John Hancock
(1737-1793)

マサチューセッツ州の代表だったJohn Hancockは、独立宣言の最初の署名者。56人の署名の中でも彼の肉太のサインはひときわ目立つ。現代のアメリカでは、John Hancockは"signature"という意味でも使われ、例えばクレジットカードで買い物をした時などに"John Hancock, please"と言われることもまれにある。
この直後の第2回大陸会議においてGeorge Washington(1732-99)を司令官に選出して大陸軍(Continental Army)が結成され、その後1776年7月4日に再びPhiladelphiaに集まった植民地代表者は、Thomas Jefferson(1743-1826)らを起草者として独立宣言(Declaration of Independence)を公布しました。

イギリス軍はBrandywineとGermantownで大陸軍を打ち破りました。植民地側には独立に反対する大地主・商人もいて陣営も整わず、大陸軍の兵士たちは十分な食糧、衣料、武器もないまま厳しい冬を過ごさなければなりませんでした。しかし、独立宣言に補筆したBenjamin Flanklin(1706-90)がヨーロッパ各地を訪問し、アメリカ独立の合理性を主張・運動に対する指示を訴えたことが功を遂し、イギリスの宿敵フランスは植民地側に応戦、スペインもフロリダの奪還を目指して参戦するなど、戦局は次第に植民地側に有利に展開していきました。


1781年10月19日にVirginiaのYorktownで大陸軍は決定的な勝利をおさめ、ついにイギリス軍は降伏しました。2年後の1783年に平和条約(パリ条約)が締結され、アメリカ合衆国が誕生したのです。

 最終更新日:2004年1月16日(金)
Previous Next